集合授業が当たり前だった時代は、変わり始めている

投稿者: | 2026年3月15日

昔から「ものを習う」という場は、1人の先生が複数の生徒を教える形が基本でした。
寺子屋もそうですし、藩校もそうでした。明治維新以降の学校教育も、基本の構造は変わっていません。

それは当然のことでもあります。先生が1人で何人もの生徒を教えられれば、その方が効率が良いからです。
戦後の予備校が巨大化していったのも、その延長線上にありました。
1人の講師が200人、300人という受講生を前に授業をする――そんな光景も、かつては珍しくなかったのです。

ただ、さすがにそこまで大人数になると、学びの質を保つのが難しくなる。
そこで少しずつ、1クラスあたりの人数は絞られていきました。

中学受験の世界でも、昔は100人規模のクラスが存在しましたが、今ではおおむね15人前後に落ち着いているでしょう。
しかし、人数を減らせば、その分だけ多くの先生が必要になります。
すると今度は、先生ごとに授業内容が変わっては困るという発想が強くなる。

そこで授業は、誰が担当しても同じ内容になるようにパッケージ化されていきました。
先生の個性によって扱う問題が変わることもなければ、教え方が大きく違うこともない。
かつては「名物先生」と呼ばれるような存在がいましたが、今はそうした授業そのものが成立しにくくなっています。

その代わりに強くなったのが、クラス分けと競争です。
もともとクラス分け自体は昔からありましたが、これは子ども以上に、むしろ親に強く作用します。
「もっと上のクラスへ行かせたい」という思いが生まれれば、家庭の中でも競争意識が高まる。

上位クラスの子どもたちはよく勉強するようになり、結果として塾の合格実績も伸びていく。
さらに、その実績に引かれて「追いつきたい」「追い越したい」と考える家庭が集まってくる。
塾にとっては、非常に回りやすい仕組みだったわけです。

しかし本来、受験勉強というのはきわめてパーソナルなものです。
志望校は一人ひとり違います。得意不得意も違う。家庭の状況も違う。
本来であれば、学び方まで同じである必要はありません。

実際、昔はみんなもっと自分で勉強していました。
大学受験向けの塾や予備校が今のように広く定着したのも、長い歴史から見ればそれほど古い話ではありません。
もともとは、それぞれが自分で考え、自分で勉強を進めるのが普通だったのです。

そして今は、授業はすでに標準化され、教材も豊富にそろっています。
ここまで環境が整っているのであれば、一人ひとりが個別に学ぶ方が、むしろ効率が良いのは自然なことです。

大学受験の世界では、身近に指導者がいないから予備校や塾に通う、という事情がありました。
しかし、もし適切に支えてくれる存在がいるのであれば、必ずしも集合授業である必要はないのです。

実は私自身、最近になってようやくそのことを強く意識するようになりました。
それほどまでに、「塾に通う」「みんなで同じ授業を受ける」という形が、長いあいだ当たり前のものとして定着していたからです。

けれども今は、状況が変わりつつあります。
さまざまな技術が生まれ、これまで当然だと思われてきた学びの形が、必ずしも唯一の正解ではなくなってきました。

コロナ禍のときにも、「あれ、これでも十分できるのではないか」と感じた場面は少なくなかったはずです。
これから先、「集まって同じ授業を受けること」が前提ではない時代が、少しずつ本格化していくのかもしれません。